【エッセイ】それが、語学の苦しみ――語学の天才M先生のこと
大学生の頃、M先生という方がいた。この人は、私が出会った人の中でもっとも適当な人だった。眠いから午前の授業は嫌だといって、勝手に午後の授業に変えてしまったり、来週は風邪を引く予定だからといって、しょっちゅう講義を休講にしていた。
そんなM先生であるが、語学に関しては、天才的な人物だった。とある東欧の国に生まれ、京都大学やオクスフォード大学で学位を取得し、9カ国語に堪能(!)な、適当おじさんだったのある。私は、基本的に語学は独学で学んいたが、語学のやり方というものを、この先生から学んだところが大きい気がする。
その先生が、あるとき言った。
「日本人は、単語を覚える苦しみを知らない」
いろいろと、へんてこなことをやらかしていた先生だったが、この言葉は印象的だった。たとえば、第2外国語を習うとき、ほとんどの学生は1年で基本的な文法を学習するが、日本の大学生で、フランス語や中国語などの第2外国語で、ある程度の読み書きができるようになって卒業する人など、ほとんどいない。最高学府など呼ばれるような大学でも、第2外国語がある程度使えるようになって(CEFRのB2レベルぐらいになって)卒業する人に出会うなど、宝探しをするようなもので、そうそうであることではない。
理由はただ一つ、単語を覚えないからである。
言語の面白さを味わうには文法書を読んだり、言語の解説書を読んだりするだけで味わえる。しかし、そこから例えば、その言語で書かれた書物を読んだり、その言語で話されている人物の発言をなめらかに理解するようになるには、単語を覚えないといけない。どれだけ逃れたくても、そこを避けていては「一応やったことはあります」というレベル以上のものにはならないのである。
第2外国語だけでなく、多くの人の英語学習にも同じことがいえる。高校生が、大学入学共通テストや各模擬試験で全国平均に届かない原因は大抵、単語をちゃんと覚えていないから、といってもいいのである。
こうなってしまう原因は何かというと、単純に単語を覚えるのがしんどいからに他ならない。家の電話番号を覚えるのがしんどいという人はほとんどいませんが、単語を覚えるのはしんどい。とにかくしんどい。たくさん覚えないといけないから。
語学ができる人で、単語を覚えなかったという人はまずいない。単語を覚えるのは、苦しいことである。どこまで覚えても、ものすごく簡単な単語を忘れていることに気づくことがある。苦労して苦労して覚えても、簡単な本を1ページ読むだけで、まだまだ知らない単語が現れる。知ってる単語でも、知らないような用法で使われているのに出くわすことがある。
語学は結論、どこまでいっても苦しみの連続である。語学ができるということは、その苦しさを知るということではないだろうか。
そうはいっても、やっぱり人間、苦しみはできるだけ少なくして生きていきたいものだ。だから、語学でも何でも、できるだけ効率よくできるようにいろんな人が、いろんなやり方を考えいいる。でも、そうはいっても、近道はそれなりにあるかもしれませんが、地道な努力を全くせずに一つの言語をマスターするなど絶対に不可能である。
そんなことを考えさせてくれた、M先生の一言であった。数年前にギリシャ語の大きな本を出版されておったが、今頃は何をしているのやら。教授にでもなってるのかもしれない。
※この記事は、『(旧)やるせな語学』(2018年10月)に投稿されたものを、加筆修正したものです。