【エッセイ】現在完了と will で、宇宙に流れる「すべてのじかん」が表せる。
誰しも「推し」を語る時代である。アイドルの「推し」であろうが、アニメのキャラクターの「推し」であろうが、何かを純粋に気に入って大事にする感覚は皆同じである。
一介の語学講師である私にも「推し」というものがあって、それは、祖語の音韻変化や古英語の強変化動詞といったものである。私にとっては時間とお金を注いで追い求める価値のあるものなのだが、遺憾なことに大抵の人類には理解されない。自分が好きなものを純粋に追い求めるのが「推し活」であるわけだから、その本質はステージの上の偶像を日夜追いかける純粋の民と変わらないはずであるが、周りを見渡しても、いかんせん同志が見あたりませぬ。
さすがにゲルマン祖語の音韻や形態について語るだけでは商売にならぬわけで、私は英語教員という仕事で生計を立てている。幸いなことに英語も他ならぬゲルマン語族の一員であり、私の「推し」であるから、なんだかんだ「好きなことを仕事にする」ことができている。ありがたい話である。英語教員としての「推し」ももちろんあって、それは好きな英単語などになるのだが、今回は「推しの構文」についての話である。
英語における私の「推し構文」というと、次のようなものが思い浮かぶ。
- “the + 比較級, the + 比較級”
(印欧語の具格の意味が現代に保たれている点が推しポイントである。一つ目の the と二つ目の the で統語的役割が異なるのもよき。) - “It is necessary that he come.” [comesではない!] などに現れる仮定法現在。
(イギリスで廃れた古い用法がアメリカ英語で復活したという点がアツい。) - “I am liking him more and more.” などに見られる状態動詞の進行形。
(進行形の使用範囲が現代英語において拡大してきていることをダイナミックに示してくれている点がエモい。)
こういった構文は学校文法でも時間を割いて扱われる存在であるが、今回は現在完了と直後の will を組み合わせた「構文」というほどでもない表現について紹介したい。
2025年9月15日のMLBドジャース対フィリーズの一戦での現地実況より。大谷翔平選手が5回ノーヒット投球をした後、8回に特大ホームランを放ったシーンから引用しよう。
High flyball to deep right field. Five no-hit innings on the mound and a skyscraping homerun! There’s nobody like him! Never has been. Doubtful there ever will be.
ライトへ高く上がった。マウンドでは5回ノーヒット、そして天を切り裂くようなホームラン! こんな人間は他にいない! 今までもいなかったし、これからも現れないだろう。
※ skyscraping 空を削り取るような
※ never has been = (There) never has been (anyone like him).
※ Doubtful there ever will be. = (It is) doubtful (that) there ever will be (anyone like him). [doubtful「疑わしい, なさそうだ」]
引用元(YouTube動画: 引用箇所は 4:08あたりから): 【現地実況】ドジャース・大谷翔平が5回ノーヒットピッチング&MLB史上6人目となる2年連続50号HRの偉業を達成!「彼のような選手は過去にも未来にも現れない」
下線部は、現在完了と will を用いた未来時制*の組み合わせで、never と ever という単語が入っている。ever は現在完了と共に教科書に登場することが多いので「今までに」という訳語で覚えている人が多いのだが、原義は “at all times” (常に、いつでも、あらゆる時点において) である。時間の方向性は中立で、過去方向にも未来方向にも使用できる。
*willを「未来時制」と呼ぶことについては、こちらの記事を参照。
下線部直前の There’s の定形動詞は is は、いま目の前で大谷選手がダイヤモンドを一周している現在時を示している。そこから、never has been によって過去方向の「全時間」、ever will be によって未来方向の「全時間」が示されているわけである。英語がもっている文法形式をうまく使うことで、「いま」を中心点に果てしなく広がる時間を鮮やかに表現している。だからこそ目の前で起きている現象の偉大さがさらに際立つのである。
そんなことを考えていると、語学講師は次のように問いたくなる。
そもそも、時間とは何か。そして、時制とは何か。
時間とは宇宙に流れる普遍的な時の流れである。英語話者にも日本語話者にもインドネシア語話者にも、地球上で普通に生きている限り、時間は平等に流れる。時間とは何かを考えるのは主に物理学者の仕事である。宇宙の始まりを考えることは、時間の始まりを考えることと同義であり、時間の進み方を考えることは物体の運動を考えることと切り離せないからである。
一方、時制は言語の内部にある文法範疇である。言語が変わると時制が変わる。同じ西ゲルマン語に属する英語とドイツ語を比べても、時制表現に関しては大きな相違点がいくつもある。時制を考えるのは言語学者の仕事であり、その成果をありがたく頂戴して我々学習者は外国語の時制表現を苦労しながら学んでいくのである。
英語の現在完了と未来時制を組み合わせると、「いま」を中心点にして「これまで」「これから」のすべての時間が表せる点が興味深いのである。
例をもう一つ。
2025年の京都大学の英語の入試問題より。大問2は「ビッグバン理論」についての英文であった。宇宙の始まりがどのようなものであったか、そして物理学がそれをどのように解明しようとしているのかについての文章である。
One day we may have a complete theory which explains this first moment and which will tell us whether there have been, or ever will be, other bangs, big or otherwise.
いつの日か、この最初の瞬間を解き明かし、ビッグバン的なものであれそうでないものであれ、他の爆発がこれまでにあったのか、あるいはこれからあるのかを教えてくれる完全無欠の理論を我々は手にするかもしれない。
出典: :Chris Lintott, Accidental Astronomy: How Random Discoveries Shape the Science of Space, 2024. Basic Books
ここに引用したのは続く1文と共に和訳問題の下線部となっていた箇所である。現在完了 have been という「時制」がカバーする「時間」は、ビッグバンが起きた宇宙の始まりの時点から現在時までで、ever will be がカバーするのは現在時から宇宙の終わりの時点である。まさに二つの構文を足し合わせて、「宇宙のすべての時間」を表しているのが面白ポイントになってくる。とはいっても、もちろん受験生はそんな脳天気な時制思索に耽っている暇はないので、試験場ではせっせとこの箇所を訳していかないといけませぬ。
こういった物理学に関する英文を読むのが私は好きである。「時間」と「時制」は異なるフィールドの概念であるが、これらを探求することには何かしら相通じるものがあるような気がしてきて楽しい。
これに続く段落で、遙か昔の宇宙の様子を直接確認するための実験を行うことが不可能であることが指摘される。そう考えると、宇宙の起源を探ることは、失われた祖語を再建することと似ている。宇宙の起源を実験で再現するのが不可能である以上、その観測は抽象的な理論と計算によるものとなる。祖語を再建するのも同じで、文献が残っていない言語を復元するには、残ったわずかな娘言語たちから、理論的に――「極めて」理論的に――失われた祖語を計算して組み立てる必要がある。
万有引力が宇宙のすべての物体に当てはまる「法則」たる性質をもつと認められてからおよそ150年後、グリムやヴェアナーは言語の世界にも揺るぎない「法則」を見いだした。
一方で、宇宙についてわからないことがたくさんあるのと同じで、言語に関してもわからないことが無限にある。むしろ、ほとんどのことはわからないといってもいい。文法の中でもつかみ所のない「時制」について考えることは、「なんかようわからんもの」をわからんなりに愛せるようになるための一歩である。
それでは最後に、同じ文章の後半部から一部引用し、問いを立てて終わりとしよう。こちらも和訳問題の設問箇所となっていた部分である。
It turns out we can say something sensible about conditions then, and so when observers like me talk about the Big Bang theory, we tend to mean not so much the single moment of beginning but the general and testable idea that, whatever started the thing rolling in the first place, the Universe began its life in a hot, dense state and has been expanding ever since.
出典: 同上
【問い】太字にした動詞 began という過去形が指し示す「時間」はいつのことか。
【問い】has been expanding ever since の部分はなぜこの時制形式になっているか、この時制表現が表す「時間」の広がりを視野に入れて説明しなさい。
言語学習で大切なのは、どの時間を、どの時制で表すかを身につけることである。宇宙規模で時間と時制の関係を考えてみるのも、暇つぶしの方法として悪くないですよ。
