ゲルマン語子音推移、あるいは「グリムの法則」

imaizumisho

英語の pedal「ペダル」と foot「足」はグリムの法則により、pf, dt が対応するから同語源だね。

なんて台詞を日常的に口走る人はいないかもしれませんが、英語を勉強し、言語学を少しでもかじったことがある人なら、「グリムの法則」という用語を耳にしたことがある人も多いと思います。このような市民権を獲得した用語は珍しく、英語圏でも、「よくわからないけど名前だけ知っている用語の代表」のような扱いを受けることもあります。今回は、「グリムの法則」とは何か、言語史と音声史における意義に触れつつ解説していきます。

この記事ではグリムの法則の理論的解説を中心に扱います。言語学の基礎知識がない人でも理解できるように順を追って丁寧に説明していきます。そして、この現象は言語学のムズカシイ理論にとどまらず、一般の言語学習にも生かせる要素が十分あります。次回の記事では「グリムの法則を英語学習に生かす」というコンセプトでさらに話を進めていきたいと思います。

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The Peerless Correspondence of the consonant systems

子音体系の比類なき対応

グリムの法則(Grimm’s law)は、印欧祖語がゲルマン語に至るまでに起きた、体系的な子音変化についた名前です。

この現象には次のような特徴があります。

  • 印欧語とゲルマン語の子音の対応関係。
  • 紀元前10~5世紀までに起きた。これがゲルマン語を他の言語と隔てることになった。
  • 3つの系統の音変化が、相互関連しながら体系的に起きた。

印欧祖語が様々な語派に分かれる中で、ゲルマン語派においては、印欧祖語の子音が、地滑り的に規則正しく変化していきました。この音変化を経験していることこそが、ゲルマン語派と他の語派を分ける特徴であったわけです。

この現象の特徴的な点は、/p,t,k/ といったすべての閉鎖音が3つ仲良く/f,θ,h/ という3つとも摩擦音になるような、非常に体系的な変化をしたというところです。ある1音が個別的に別の音に変化した訳でなく、多くの音の変化が相互関連的に、極めて規則的に起きたのです。これほどの大規模で、極めて統一的に起きた音変化は言語史上他に類を見ないほどの現象だと言われています。

それでは次節からは実際の音の対応を見ていきます。わかりやすい説明にするため、一部実際の現象を簡略化していますが、切り落とした部分は最終節で回収することにします。

Q
【補足】グリムとラスク

ヤーコプ・グリム(1785-1863)は、ドイツの言語学者、文法学者です。弟のヴィルヘルムと共に編纂した『グリム童話集』(Kinder- und Hausmärchen)で名を知られています。グリム兄弟として有名な両者ですが、本職は言語学者でした。2人が編纂した通称『グリムドイツ語辞典』は全33巻に及ぶ言語辞典で、歴史上最も規模の大きい辞書の1つとして知られています。

グリムは特にドイツ語や古いゲルマン諸語を勉強すると必ず名前が出てくるような大人物です。現代では当たり前になっている「アプラウト」, 「ウムラウト」、「強変化」、「弱変化」などの文法用語は彼の命名に依ります。そのグリムの名を言語史上に輝かせているのが「グリムの法則」という現象に付けられた名前です。1822年発表の『ドイツ文法』(Deutsche Grammatik)の中で提唱されました。

しかし、この現象を最初に発表したのはデンマークの印欧語学者ラスムス・ラスクという人物でした。グリムの著作に先立ち、1818年にギリシャ語やラテン語とゲルマン語派の言語に子音対応の法則があることを述べました。デンマーク語で発表されたラスクの著作はあまり広まることはなく、ドイツ語で発表したグリムの名が広まり、現在に至るわけです。

ラスクとグリムは比較言語学が学問として確立していく黎明期を代表する大言語学者であり、その功績は19世紀の言語学の発展に大きな影響を与えました。

Q
【補足】呼び方いろいろ

「グリムの法則」というのは、通称のようなものです。英語圏では Grimm’s law という通称がよく知られていて、日本語でもその訳がまかり通っています。ヤーコプ・グリムの本国ドイツでは、「グリムの法則」という名称ではなく「ゲルマン語子音推移」die germanische Lautverschiebung や「第一次子音推移」die erste Lautverschiebung という名称で呼ばれます。英語圏や日本でもこれらの名前で説明されることもあります。

これを「第一次子音推移」と呼ぶということは、「第二次子音推移」もあるわけです。これは、ゲルマン語派の内部で、西ゲルマン語から高地ドイツ語へと至る過程で起きた子音推移を指します。「第一次子音推移」が印欧語とゲルマン語の対応であるのに対し、「第二次子音推移」はドイツ語と他のゲルマン諸語(英語もここに含む)との対応を説明します。

2
The Correspondence of Each Sound

音の対応

グリムの法則で説明できる子音の変化は大きく3系統あります。この時点で意味がわからなくてもかまいません。とりあえず、3つの系統があったと今はご理解ください。

印欧語→ゲルマン語
【系統1】
摩擦音化 
spirantization
無声閉鎖音→無声摩擦
【系統2】 
無声化
devoicing
有声閉鎖音→無声閉鎖音
【系統3】
非帯気化
deaspiration
有声帯気閉鎖音→有声閉鎖音 

この現象を理解するために、少し遠回りですが、子音の性格付けの方法を1つ1つ説明していきます。音声学の基礎知識がある人はこの部分を読み飛ばして下さい。

グリムの法則を理解するための音声学入門①
子音の調音法

有声音と無声音の対立》

無声音 voiceless
声帯の振動を伴わずに発音される音。日本語では清音や半濁音の子音。
例/p,t,k,h,s,θ/

有声音 voiced
声帯の振動を伴って発音される音。日本語では濁音。
例/b,d,g,z,ð/

《調音法

閉鎖音 stop
空気の流れを口の中でのどこかで完全にせき止めてから一気に吐き出す時に調音される子音。
無声音の例/p, t, k/
有声音の例/b, d, g/

摩擦音 fricative
空気が通る狭い隙間を口の中でつくり、そこから空気を逃がすことによって発音する子音。
無声音の例/f, θ. h, s/
有声音の例 /ð, z/

閉鎖音の帯気化

帯気音 aspirate
閉鎖音を発音するとき、強い呼気とともに発音する音。
無声音の例/ph, th, kh/
有声音の例/bh, dh, gh/
※hの文字を右肩に小さく付けるのが一般的です。これで一つの子音の音素と考えます。

Q
調音法を理解するための「おなら」理論【ちょっと閲覧注意】

上記の用語をより納得して理解するために、誠にお下品になりかねないのですが、ここからは、子音の発音を「おなら」になぞらえてみます。なんと申しましても、肛門は、お口よりも単純な発音(?)器官であるために調音法がイメージしやすいのです。

閉鎖音は「p♪」と出ちゃう小さいおならの音だと思ってください。無声音ならあまりバレませんが、「b♪」と音が出ると有声音です。

帯気音は、先ほどの「p♪」や「b♪」おならが、もっと圧力を増して出てきた「p☆☆!」「b☆☆!」ぐらいになった感じだと思ってください。有声帯気音の「b☆☆!」を人前でかましてしまうと、それはやらかし以外の何ものでもありません。

摩擦音は、一瞬で「p♪」とはならない、「❀sssssssss~~」と出てくる安らかなおならです。空気が持続的に流れる点が閉鎖音と異なります。無声の場合は、最も一般的なすかしっ屁の方法でありますね。

全然そんな必要はないのですが、以上の「おなら」たちにどうしても言語学的名称を付けるなら以下のようになります。使用は自己責任でお願いします。

「p♪」無声肛門閉鎖音
voiceless anal stop
「b♪」有声肛門閉鎖音
voiced anal stop
「p☆☆!」無声肛門帯気閉鎖音
voiceless anal aspirate stop
「b☆☆!」有声肛門帯気閉鎖音
voiced anal aspirate stop
「❀sssssssss~~」無声肛門摩擦音
voiceless anal fricative

グリムの法則を理解するための音声学入門②
子音の調音点

子音を調音する際、口腔内のどこかで空気の流れをせき止めています。閉鎖音なら完全にせき止め一気に解放します。摩擦音なら狭い隙間から持続的に空気を流します。閉鎖音では、どことどこが接して空気をせき止めているか意識すると調音点がわかります。摩擦音ではその子音を言いながら息を「吸って」みると、少し冷たく感じるところがあると思いますが、そこが調音点です。

以下の話で重要になってくるのは、閉鎖音の最も基本的な3つの調音点です。キーワードは、「唇」「歯」「軟口蓋」です。

唇音
唇を使って調音する子音は、無声の閉鎖音が /p/ です。専門的には無声両唇閉鎖音と呼びますが、今回は、便宜上「唇音」と呼ぶことにします。「唇音」が摩擦音では、/f/ になります。英語などの /f/ は下唇だけを使うのですが、「唇音」ということで理解してください。
無声閉鎖音 /p/ 有声閉鎖音/b/
無声摩擦音 /f/

歯音
歯のあたりで調音するのは、無声閉鎖音が /t/ です。無声摩擦音になると英語の think などの /θ/ になります。
無声閉鎖音 /t/ 有声閉鎖音/d/
無声摩擦音 /θ/

軟口蓋音
口の天井のに舌を這わせていったとき、すこし柔らかくなる部分です。口の奥の天井(軟口蓋)に舌の根っこ部分をにゅっと盛り上げ接触させ空気をせき止めます。無声閉鎖音が /k/ で、無声の摩擦音は /h/ です。
無声閉鎖音 /k/ 有声閉鎖音/g/
無声摩擦音 /h/

子音の調音点はこれ以外にもありますし、これらもさらに細かく分類できるのですが、今回はこの3つのおおまかな調音点を押さえておくと十分です。

3つの調音点に、それぞれ3つの音の例無声閉鎖音、有声閉鎖音、無声摩擦音)をつけて合計9つの音素が出てきています。これらがグリムの法則により産み落とされることになる音素に他なりません。

前提を押さえた上で、いよいよグリムの法則に入っていきます。3つの系統それぞれの変化を見た後に、また全体へと戻っていきます。そうすると最初の表の意味がよりわかってくると思います。

《系統1》を見てみましょう。ここでは、無声の閉鎖音が摩擦音に変化しています。

グリムの法則《系統1: 摩擦音化》
無声閉鎖音→無声摩擦
唇音/p//f/
歯音/t//θ/
軟口蓋音/k//h/

重要なのは、/p,t,k/ という最も一般的な閉鎖音が、すべて一様に同じ調音点の摩擦音 /f,θ,h/に変化している点です。調音点は同じというのは、グリムの法則すべての系統に当てはまります。つまり、「有声か無声か・帯気か非帯気か・閉鎖か摩擦か」のみの対立を考えるとよいわけです。《系統1》では、ここに見るように、無声のまま、調音法が閉鎖音から摩擦音に変わったのがポイントです。

この《系統1》は、最も目につきやすく、重大な変化です。これを知っているだけで、英単語の、

pedal-foot
triple-three
core-heart

などの対応が規則的なものに見えてきます。(coreでは文字は<c>だが、は/k/であることに注意。)<p>と<f>なんて、文字だけ見たらそれほど関係なさそうですが、どちらも「唇音」で閉鎖音か摩擦音かの違いだけの「仲良し音」であることに気づくことが重要です。

《系統2》に進みます。この系統では、有声閉鎖音の無声音化が起きます。

グリムの法則《系統: 無声音化》
有声閉鎖音→無声閉鎖音
唇音/b//p/
歯音/d//t/
軟口蓋音/g//k/

濁っていた有声音が、濁らない無声音に変化しています。先ほどの例で、

pedal-foot

の対応を見ましたが、語頭のpf が対応しているのは《系統1》によるもので、続く子音のdt が対応しているのは《系統2》の歯音の対応によるものです。この系統は、濁音の有無などで有声音と無声音の違いがイメージできる日本語話者には理解しやすいものです。

《系統3》に進みます。ここでは、帯気音が非帯気音になります。

グリムの法則《系統: 非帯気化》
有声帯気音→有声非帯気
唇音/bh//b/
歯音/dh//d/
軟口蓋音/gh//g/

ここでは、印欧語の帯気音が、呼気を伴わない非帯気音に変化しています。この系統は英語などの現代語ではさらに少し変化した形態で現れることが多いです。詳しくは次回の記事で扱います。

個別の事例を見てきたので、ここで最初の表に戻ります。

印欧語→ゲルマン語
【系統1】
摩擦音化 
spirantization
無声閉鎖音
p, t, k
無声摩擦音
f, θ, h
※ゲルマン語が新たに獲得
【系統2】 
無声化
devoicing
有声閉鎖音
b, d, g
無声閉鎖音
p, t, k
【系統3】
非帯気化
deaspiration
有声帯気閉鎖音
bh, dh, gh
※ゲルマン語で消失
有声閉鎖音 
b, d, g

グリムの法則で説明される現象は、次の順番で考えるとわかりやすいです。

ゲルマン語が摩擦音を手に入れる。

《系統1》の変化により、ゲルマン語は3つの摩擦音を手に入れます。

前回の記事で触れたとおり、印欧語は極めて摩擦音が少ない音韻体系をもっていました。ゲルマン語ではこの不足が解消されます。

しかし、この結果、/p,t,k/という、世界のほとんどの言語に見られる極めて基本的な無声閉鎖音が欠けた体系になってしまいます。

失った無声閉鎖音を補う。

《系統1》の結果失った/p,t,k/という無声閉鎖音を、《系統2》によって有声音/b,d,g/から再獲得します。

失った有声閉鎖音を補う。

《系統2》の結果失った/b,d,g/という有声閉鎖音を《系統3》によって、帯気音/bh,dh,gh/から再獲得します。

そのため、ゲルマン語は帯気閉鎖音を欠いた音韻体系となりました。

まとめると、これらの変化の結果、ゲルマン語は新たに/f,θ,h/といった無声摩擦音を手に入れ、失った音を別の系統で補い、最終的に有声帯気音を失いました。《系統1》で失ったものを《系統2》で再獲得するように、上記の表では斜め方向に同じ音が出てきているのがわかると思います。

以上がグリムの法則の全体像です。非常に均整のとれた変化になっているのが理解できたでしょうか。

Q
【補足】「押し出し型」による説明

ここまでの説明では、《系統1》をきっかけに、それに引っ張られるように他の系統の変化が起きたように説明してきました。いわば、「引っ張り型」の説明です。実際のところ、この変化がどの順番で起きたかはわかっていません。

反対向きからの説明としては「押し出し型」の説明があります。唇音を例に解説します。

bh > b > p > f

まず、/bh/という有声帯気音が/b/となって非帯気化します。帯気音は類型論的にやや特殊な(専門的には「有標の」)な音であるため、この変化は極めて自然な変化です。一般に、《閉鎖+帯気》のような音声的に複雑な音は、時間がたつにつれ、より単純な音素に変化しやすいとされます。

/b/が新たに生み出された結果、本来/b/だったものが/p/に無声化し、本来/p/だったものが/f/に摩擦音化したというわけです。ところてん式に押し出された変化といえるでしょう。

閉鎖音が摩擦音に変化するのも、一般的な変化の流れです。日本語のハ行の音は、奈良時代は/p/の子音で発音されていたという説もあります。「ふ」の文字は /pu/→/fu/ とグリムの法則と同じような変化を被ったことになります。(厳密には、日本語の「ふ」の子音は無声両唇摩擦音/φ/であって、下唇のみを使う/f/とは異なりますが、ここでは便宜上/f/で表しています。)

3
Restrictions

阻害条件

グリムの法則の変化の優れた点は、印欧語からゲルマン語に至る音変化を、例外なくすべて一様に説明できる点です。後に発表される「ヴェアナーの法則」と組み合わせると、がっちりと隙のない体系が完成します。

最も目につくのはやはり《系統1》の摩擦音化という変化です。グリムの法則に見られる代表的な変化ですが、この系統は一定の条件下では、法則の適用外となります。キーワードは「摩擦音は連続しない」です。

阻害条件①

無声閉鎖音/p,t,k/は、摩擦音/s/が先行すると、摩擦音化しない。

印欧語において、摩擦音は/s/の一つしか再建されていません。これが無声閉鎖音に先行すると、《系統1》は適用外となります。つまり、/sp,st,sk/は、/sf,sθ,sh/とならずそのままであるということです。

ギリシャ語
aster 星 (> asterisk アスタリスク)

古英語
steorra 星 (> star)

本来なら、ギリシャ語に見られるような /t/ は英語では /θ/ に変化するはずですが、「星」を意味する単語は、/st-/ です。sの後で /t/→/θ/のグリムの法則《系統1》が阻害されるからです。

阻害条件②

無声閉鎖音が連続すると、先行する閉鎖音だけ摩擦音化する。2つめの閉鎖音は摩擦音化しない。

印欧語で、-pt- のように閉鎖音が連続する場合、先行する音のみ《系統1》が適用され、2つ目の閉鎖音には適用されません

印欧語 *kapt
(>ラテン語 captus > 英語 captive)

ゲルマン語 *haft
(>ドイツ語 haften 捕らえる)

以上2つの阻害条件から、「摩擦音は連続しない」ということが導かれます。これはゲルマン語に限らず、多くの他の言語にも見られる特徴です。空気を多く吐き出す必要がある摩擦音は、多くの言語で隣り合わないことが多いのです。英語を見渡してみても、摩擦音が連続する単語は、sforzando(イタリア語由来)や sphere(ギリシャ語由来)などの外来語や固有名詞を除くとほとんど見られません。

Q
【補足】英語で語幹の摩擦音に屈折語尾/s, z/続くとき

摩擦音が同一音節内で連続することは、英語では珍しいのですが、語尾がつくときは別です。英語の屈折語尾の代表である<-s>は/s,z/の音をもつ摩擦音です。そのため、摩擦音で終わる単語につくときは、もれなく摩擦音の連続が起きます。そして発音しにくいことが多いです。

clothes, mouths, months などは、発音しにくい単語の代表ではないでしょうか。

clothes は正式には /θs, ðz/ という発音も辞書に載っていますが、/z/と<th>を落として発音されることが一般的です。同様に、mouths もよく、/z/になったりします。months は/ts/という破擦音になって一気に発音されることが多いです。

一方で、laughs, lives などの /fs, vz/ はそれなりにしっかりと発音されることが多いです。/f/と/s/で調音点が異なるため、同化が起こりにくいものと考えられます。

Q
【補足】ゲルマン諸語では語頭の閉鎖音は帯気化が起きる。

実際の現代ゲルマン諸語の発音では、強勢母音の前に単独の閉鎖音が来ると、大抵は帯気化して発音されます。これはゲルマン語内部での発達であり、グリムの法則とは関係がありません。

4
Some comments

【補遺】専門的な補足

ここまでの節でグリムの法則の全貌は一通り解説し終えました。言語学習をより楽しくするという動機でグリムの法則に触れるならここまでで十分だと私が思う範囲はここまでです。

本節では、上記の説明で割愛した専門的事項を、いくつか補足しておきます。

グリムと後の青年文法学派

言語学史的な背景についての補足です。

「グリムの法則」という名があまりに広まりましたが、この時代はまだ「言語学」という学問自体が今のように確立していませんでした。言語学は、19世紀のラスク、グリム、シュライヒャー、ボップといった印欧語学者の研究成果により、実証的な学門としての道が開かれたわけです。

グリム自身は、印欧語とゲルマン語の関係を主に研究しました。音の対応よりも文字の対応に主に注目し、体系的な音韻体系の構築という点は重視していませんでした。グリムの理論は1870年代にライプツィヒ大学を中心に活躍した青年文法学派と呼ばれる学者グループに受け継がれます。青年文法学派は「音韻法則に例外無し」(Ausnahmlosigkeit der Lautgesetze)という有名なテーゼを掲げ、言語学を実証科学にまで押し上げます。あらゆる例外は、学術的理論によって説明されないといけないとする立場は、後の言語学の発展に大きな影響を与えることになりました。

両唇軟口蓋音/kw,gw,ghw/

3節までの説明では、調音点を「唇音・歯音・軟口蓋音」の3つに絞って言及しましたが、グリムの法則を正確に記述する際には、「両唇軟口蓋音」/kw,gw,ghw/という第4の調音点を想定することが多いです。

無声閉鎖音 /kw/
有声閉鎖 /gw/
有声帯気音 /ghw/

このように4つ目の調音点を当てはめると、《系統1》では、

/p,t,k,kw/→/f,θ,h,hw/

という変化が起きたことになります。今回の説明では、両唇の要素がある/○w/から「w」の部分を除くと軟口蓋音と同じであるため、便宜上除いています。本来、/kw/で一つの音素と考えるので、厳密には含める方がいいでしょう。

印欧語の舌背音(dorsal)には、/k/の系統でいくと、

硬口蓋音/k’/
軟口蓋音/k/
両唇軟口蓋音/kw/

といった区別がありました。詳しくは前回の記事(2節: 印欧語の子音)で解説しています。このうち、印欧語期のうちに硬口蓋音は軟口蓋音に合流しているので、グリムの法則を考える際には考慮しません。

/p/→/f/の間に

3節の補足でも触れましたが、現代ゲルマン諸語では強勢母音に先行する単独の閉鎖音は、実際には帯気化して発音されます。

ドイツ語では、Tat の語頭の/t/ は、実際には/th/のようになるわけです。これに摩擦音が先行すると、この帯気化は起きません。

Tat /that/ 帯気化
Stadt /ʃtat/ 帯気化なし

これは、3節で検討した阻害条件②と関連してきます。阻害条件②によると、/sp/→/sf/の変化は起きないのでした。これは、摩擦音が先行することで/p/に十分な呼気が使えなかったことが要因と考えられます。

このことから、/p/>/f/ には、/p/>/ph/>/f/の帯気化段階があったのはないかと想定されています。いずれも呼気を多く必要とするように変化しています。口を閉じて解放する閉鎖音が、強い呼気と共に発語する帯気音となり、さらに空気を持続的に流す閉鎖音になったのではないかというわけです。世界の言語を見渡しても、閉鎖音>摩擦音の変化は一般的によく観察されますが、その逆は例が少ないとされます。

《系列3》の実態

上の例で無声閉鎖音が無声摩擦音になる前に、無声帯気音の中間段階があったのではないかという説を紹介しました。

同じように《系統3》の有声帯気音>有声閉鎖音は、実際のところは、有声帯気音>有声摩擦音という変化であったとするのが学術的には一般的です。

つまり、《系統3》は次のようになります。

有声帯気音/bh, dh, gh/
>有声摩擦音 /β, ð, ɤ/

しかし、《系統1》で獲得した/f,θ,h/と合わせると、これではゲルマン語は極めて摩擦音が多いという均整に欠けた音韻体系になります。そのため、さらに有声摩擦音>有声閉鎖音の変化が起きたというわけです。

《系統1》の変化で生じた/f,θ,h/にヴェアナーの法則を適用すると有声摩擦音 /β,ð,ɤ/となるので、以下のような図式になります。

《系統1》
→/f,θ,h/
↓ヴェアナーの法則
→/β,ð,ɤ/

《系統3》
→/β,ð,ɤ/

こうして、一定の条件下では《系統1》と《系統3》が合流することになりました。

5
Grimm’s Law Helps!

英語学習へ!(まとめ)

長くなりましたが、以上がグリムの法則の一般的な内容です。

一見すると複雑に見えるかもしれませんが、整理すると表向きはきれいにピースをはめるように音が動いているのがわかってきます。

そして、この音の対応を知っていると、英語の単語を勉強するのが楽しくなっていきます。英語学習に必須の知識とは言えないかもしれませんが、私は英単語を見る際に、ことあるごとにこのグリムの法則に思いを馳せることがあります。

ゲルマン語の語彙だけでなく、他系統の語彙が豊富に含まれている英語語彙を勉強する際は、この文字対応が随所に顔を出すのです。大規模な音韻対応である「グリムの法則」を1言語の語彙のうちに見ることができる言語としては、英語以上の言語はありません。英語の語彙は借用語だらけで数が多く複雑だと言われることも多いのですが、裏を返せば面白い現象がいっぱい詰まっているということです!

参考文献

ゲルマン諸語の言語史や古ゲルマン諸語を扱った文献には、多かれ少なかれグリムの法則の説明は含まれる。一般向けにわかりやすく書かれているのは Salmons 2018 である。清水 2012 はゲルマン語に関する入門書の位置づけだが、グリムの法則についての解説は専門的な内容も含む。印欧語とゲルマン祖語の語形を多く挙げて解説する極めて本格的な専門書は Ringe 2017 である。

  • 金子哲太 2023『ドイツ語古典文法入門』白水社
  • 須澤通/井出万秀 2009『ドイツ語史 社会・文化・メディアを背景として』郁文堂
  • 清水誠 2012『ゲルマン語入門』三省堂
  • Ringe, Don, 2017, From Proto-Indo-European to Proto-Germanic: 2nd Ed. A Linguistic History of English: vol. 1, Oxford University Press
  • Salmons, Joseph 2018, A History of German: 2nd Ed., Oxford University Press

印欧語・ゲルマン語全般に関する推薦書

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