英語動詞に「未来形」はあるか【②未来時制は、あります】
英語の未来表現を考えるシリーズの第2弾です。前回は、英語学習の際、「未来形・未来時制」という言葉は使われがちですが、英語には本来的には「現在」「過去」の2つの時制形式しかないということを見ていきました。
今回は、それでも、英語に「未来時制」はある!という主張していきます。「わかりやすいから」以外にも、実際には「未来時制」を認める根拠はあるのです。前回とはまったく逆の論になりそうですが、この「見方による言語の違った姿」を存分に味わってみてください。今回は、このサイトらしく、言語史の観点や、他言語との比較も盛りだくさんで、充実した内容になるはずです。
次の文を見てください。
I was twenty last year.
去年、私は19歳だった。
I am twenty now.
私はいま20歳だ。
I will be twenty-one next year.
私は来年21歳になる。
こうしてみると、英語の動詞は、「過去」「現在」「未来」という時間の区別に応じて、きれいに「過去時制」「現在時制」「未来時制」という時制の区分をもっていると考えてもなんら問題ならないように思えます。
前回の「未来時制はない」という議論に現れた根拠は大きく分けて次の点でした。
- 本来ゲルマン語には「過去」「現在」の時制しかない。
- 未来を表す表現は単語の組み合わせによる迂言的なものである。
- 現代英語において未来時は様々な表し方がある。
最初に引用した文の3つめ “I will be twenty-one next year.” は、この理論では「未来時制」ではないことになります。will be は was などと違い、1語の語形変化によるものでなく、迂言的表現であるため、未来時制とはみなせないというわけです。学習参考書では、この論を主張するため、「will はあくまで助動詞の現在形であり、will be は現在の時点での予想を表す」という説明がなされることが一般的です。詳しくは、前回の記事を参照。
しかし、この will は、果たして現在の時点での「予測」を表すといえるのでしょうか。例えば、It will rain tomorrow. といった場合は、「今の時点での話し手の予想が述べられているからあくまでこの文は現在形だ」という主張もまかり通る気もします。しかし、I will be twenty-one next year. という文においては、予想もへったくれもあったもんではありません。
一般的に、こういった will の用法を文法書では「単純未来」と呼び、「意志未来」と区別して説明されます。私が英語教員になって1年目のとき、高校1年生に英語の時制を教えるという段階で、この「単純未来」の扱いに非常に悩んだ経験があります。最初は「英語に未来時制はない」と見栄を切っていたのですが、しかし、現在の意志も予想もへったくれもない、純粋に未来時を表すだけの will もあるではありませんか。
もう、これは未来形・未来時制と呼んでもいいのでは?
さて、未来時制がない根拠の3つめ「未来時には様々な表し方がある」という点はなかなか崩しがたい牙城です。しかし、よくよく考えてみると、未来時を表す方法が多様であることと、時制形式を認めるかという点は、そもそも関係ないのではないでしょうか。仮に2通り以上の表し方があったとしても、それは「未来時制」の存在を否定する根拠にはなりません。
現状、英語では「私は来年21歳になる」という内容は、次のように英語では複数の表し方があります。
I will be twenty-one next year.
I am going to be twenty-one next year.
I am twenty-one next year.
etc…
ニュアンスに差はみられますが、どれも英語として正しい表現です。仮に「未来形・未来時制」を認めるとして、どこからどこまでがそれなのか、判断が難しいところです。そのため、多くの学習参考書では、「未来形」の代わりに「未来を表す表現」といった名の下、各表現を紹介しているのです。だからといって、「未来形はない」という議論に直接はつながらないというのが今回の主張です。(次回の記事ではこの点を、実際の英語教育の視点に立ってまた別の観点から論じます。)
そして、この中には、will be のように、完全に未来を表すだけの標識として文法化しているものがあるのが注目に値します。
英語動詞に未来時制がないとする主張の根拠としてよく言及されるのが、英語には形態としての未来形がないという点です。ここからは、1語による語形のことを「形態」、2語以上の組み合わせで表される語形のことを統語的な「形式」と呼んで区別していきます。
英語には未来形という「形態」がないという主張がなされるとき、背景には1語での未来形が存在するフランス語などの言語が想定されている場合が多いです。
前回の記事でも引用した英語・フランス語・ラテン語の時制表現を再掲します。
英語の時制
過去 | 現在 | 未来 |
finished | finish | will finish (?) |
ラテン語の時制
※形はすべて1人称単数形
過去[or 完了] | 現在 | 未来 |
finivi | finio | finiam |
フランス語の時制(1語の語形変化によるもの)
※形はすべて1人称単数形
単純過去 | 現在 | 未来 |
finis | finis | finirai |
英語やドイツ語が属するゲルマン語族の言語では、「形態」としての時制は一般に、「過去」「現在」の2つしかありません。
一方で、ラテン語や、そこから派生したフランス語、イタリア語、スペイン語などが属するロマンス語族では、「未来形」が形態として存在します。
これを見比べて、「英語には「形態」としての未来形がないから未来時制もない」という主張がなされるわけです。しかし、ここには大きな落とし穴があります。上に示したフランス語の未来形は、今でこそ1語で表される「形態」となっていますが、もともと2つの単語が組み合わさった「形式」なのです。そのため、「フランス語には未来形という「形態」があるのに、英語にはない」という主張は、実際のところ全く意味をなしません。
少し脇道にそれますが、ロマンス諸語の時制を今度は原初から振り返ります。
ラテン語には時制形態として「現在形」「過去形」「未来形」が存在します。印欧祖語がラテン語に下るにつれ、次のような機能の組み替えが起きたとされています。印欧祖語の未完了相がラテン語の「現在形」、完了相がラテン語の「完了形」(過去形と呼ぶ文法書もある)になり、接続法がラテン語の「未来形」になりました。ラテン語の「未来形」は厳然と直説法未来形として確立しています。今回の議論で、「未来形という「形態」が存在する言語」として挙げるなら、ラテン語はその筆頭であると言えます。
しかし、ラテン語からフランス語やイタリア語が派生していくにつれ、ラテン語の正真正銘の「未来形」は受け継がれませんでした。つまり、フランス語・イタリア語・スペイン語の文法で「未来形」と現在呼ばれる形態は、ラテン語の「未来形」に由来するわけではないのです。ここがロマンス語の時制をゲルマン語と比較する際、最も盲点となりがちな点なのです。
フランス語の未来形はラテン語の未来形から派生した語形ではない!
印欧語 完了相 | 印欧語 未完了相 | 印欧語 接続法 |
↓ | ↓ | ↓ |
ラテン語 過去 | ラテン語 現在 | ラテン語 未来 |
↓ | ↓ | ×派生関係なし |
フランス語 単純過去 | フランス語 現在 | フランス語 未来 |
印欧語の動詞の形態については以下の記事で。
では、フランス語・イタリア語・スペイン語の「未来形」は、古典語ラテン語の「未来形」由来でないため、言語としては、比較的後代の発達ということになります。後期のラテン語では、すでに本来のラテン語の「未来形」は口語において特に廃れており、英語の “have” にあたる語と動詞の不定形を未来表現として広く用いるようになっていました。フランス語でも、未来形は《不定詞+avoir [=have]》の組み合わせです。実際、未来形 finirai は不定形 finir と avoir の一人称単数の語形 ai の組み合わせに他なりません。
フランス語の未来形の正体
未来形=
不定形+avoir[=have] の直説法現在の活用
e.g.
finirai
=finir[不定形]+ai [=(I) have]
同じような現象がイタリア語やスペイン語でも起きて、「未来形」と今では呼ばれているのです。これが意味するのは、現代ロマンス諸語の「未来形」という形態は、実際のところ不定詞と基本語の複合的な「形式」なのです。いわば、英語の will do と同じような考えがたまたま1語で表記されるようになっただけだと言えます。イタリア語・フランス語では早い段階からこれらの複合形式が一語で表記されるようになったのに対し、スペイン語では15世紀の近代期に至るまで、未来の「形式」は2語に分けて書かれる事例が多く観察されています。(Alkire / Rosen (2010: 165))
- フランス語の近接未来【歴史は繰り返す】
-
フランス語の単純未来形は、動詞1語の「形態」のように見えますが、実は2語以上の「形式」を1語で表記するようになったものであると確認しました。それが未来形として語形変化に組み込まれたフランス語では、現代ではさらに「近接未来」という別の表現を生み出しています。
これは、動詞 《aller [=go] + 不定詞》の組み合わせによる「形式」です。現代フランス語では、特に日常会話において非常に多用される表現です。同様の表現はスペイン語やブラジルポルトガル語で観察されますが、イタリア語には見られません。語派は違いますが、英語でも同じように近代にかけて、《be going to do》という準助動詞の形式を発達させました。
こう考えると、多くの言語で未来表現は、時代の変化とともに刷新されつつ文法化していることがわかります。歴史の中で1語の「形態」による未来形が、複合語の「形式」に置き換わる事例は珍しいことではありません。
未来はそれだけ不確かで、曖昧なのかもしれません。
ここまでの議論を振り返ると、フランス語で「未来形」と呼んでいたものは実は英語の will do と同じような《不定詞+別の動詞》の組み合わせです。だからフランス語には「未来形」があるから英語にはないという議論はこの時点で骨抜きにされるのです。むしろ、迂言的な形式に由来する表現をフランス語は「未来形」と呼んでいるのだから、英語の will do のような表現も「未来形・未来時制」と呼んでもいい一つの根拠になるのです。
ヨーロッパの多くの言語の共通祖先である印欧祖語の段階では、「未来」を表す表現がはっきりと再建されているわけではありません。前節で見たように、ラテン語の未来時制は印欧語の接続法の語形から引き継いだものとされます。フランス語の直説法未来は古典ラテン語よりも後の時代の発達でした。現在、過去を表す形が、古語から直接的に受け継がれているのに対し、未来を表す形は後代の発達であることが多いことがこの事例からわかります。前節で触れた現代フランス語の近接未来もこの潮流に乗ったものであると言えます。
英語史の研究者である堀田の著書でも、次のように述べられます。
[…] 他の印欧諸語にも日本語にも見られるように、未来表現は、意志や義務などの法的な機能を持つ形式が文法化することにより発生したケースが多い。[…] これは英語史においても観察された過程であり、どうやら通言語的に見られるもののようである。[…] 少なくともいくつかの主要言語の歴史を参照する限り、未来時制は過去時制に比して後発的、派生的であることが多い。
堀田(2016: 86-87)
ここで、「未来時制」が現代英語には見られるという前提に立って、英語史における未来表現の発達を見ていきます。
古英語は、ある意味、平均的で典型的なゲルマン語でした。時制もゲルマン語本来の形式のみで、「過去」「現在」しか存在しませんでした。現代英語のように will / shall のような助動詞を使う未来表現も一般的には見られませんでした。(ちなみに、進行形や完了形などの今ではアスペクト表現と言われる形式もまだ完全には文法化していません。)
未来を表すには、基本的には現在時制で、未来時を表す副詞などとともに使っていました。現代英語でも The train arrives at noon.(電車は正午に到着することになっている。)のような表現がありますが、未来時を表すために、古英語ではこのような表現が最も一般的に使われていたということです。
では、現代英語の「未来時制」はどのようにして確立していったのでしょうか。以下では、現代英語の未来表現の will の歴史を簡単に見ていきます。 この単語は、古英語では「~したい、~を欲する」といった意味を表す本動詞として使われることが多かったです。現代英語の助動詞は歴史の中でどれも大きく意味が変わってきたのですが、will もその例に漏れません。本動詞ということは、現代語風に言うと、I will the beer.(ビールがほしい)のような言い方が古英語ではできていたということです。こうした「意志・願望」を表す本動詞が、話し手の心的態度を表す法助動詞として確立し、さらに後の時代の発展として、法性を失い「単純未来」という機能を担うようになります。(中尾・児馬(1990: 80))
- will は分類上、助動詞の中でも特別な単語
-
この will 古英語の時点でかなり特別な単語で、他の法助動詞(現代語の can, may, must, shall など)と違って、印欧語の希求法からできたゲルマン語の接続法に由来します。接続法は話し手が頭の中で考えたこと(実現していないこと)を担う表現でしたので、多くの言語で未来と結びつきやすい語形です。先ほど見たように、ラテン語の直説法未来も印欧語の接続法の語形に由来するとされます。これについて詳しくは、次のリンク先の記事で解説しています。
英語本来の動詞の種類を知っておこう【ゲルマン語の動詞について】
多くの言語では「未来形・未来時制」が歴史的に「現在」「過去」に遅れて発達することを確認しました。英語の will が表す単純未来も同様の発展を遂げています。そして、will が本動詞から助動詞として文法化すると、さらに後の時代の発達として、be going to do などの「準助動詞」と呼ばれる未来表現もまた生まれてきます。こうして時代が下ると未来を表す表現が新たに出てくることが、英語史においても見られるのです。
英語の “will” の発達
「選ぶ、欲する」を表す印欧語幹。
ゲルマン語では、英語 will, ドイツ語 wollen などと同族語。
イタリック語では、ラテン語 velle, フランス語 vouloir, イタリア語 volere などが同族語。
現代英語では will の他に、ラテン語・フランス語由来の volunteer, volition などもこの語幹に由来する。
印欧語の希求法がゲルマン語の接続法に受け継がれ、古ゲルマン語の “will” に当たる動詞ができた。そのため、過去現在動詞と呼ばれる動詞グループに由来する現代語の法助動詞とは出自がやや異なる。
古英語では「欲する」という本動詞として使われることが多かった。
shall とともに法助動詞として確立していく。次第に未来を表す言い方も出てくる。
法的な意味が失われた用法が確立し、単に時制を表す標識として文法化していく。「未来時制」の確立。
- 意味の「漂白」(bleaching)
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ここで見たように、will は元々「欲する」という意味の本動詞でした。印欧語の希求法に由来するため、現代の発想でいうと “would like to” のような考えで生まれた意味だと言えます。それが意志を表す法助動詞として文法化していきます。さらに中英語以降、その「意志」の意味が薄れていき、単に未来時を表す標識として新たな文法化の段階へと進みます。こうして(助)動詞の法的な意味が薄れて、時制標識となっていくことは、「漂白」(bleaching)の一例です。(堀田(2016: 87-88)
前回の記事では、ゲルマン語の本来の形態に根拠をおき、「英語動詞に未来形はない」という主張を紹介しました。そして、今回は、現代英語の視点から見てみると(共時的な視点に立つと)英語に「未来時制」を認めてもよいのではという、まったく逆の主張を紹介しました。前回提示した「英語に未来時制はない」という根拠に対しては、今回示したように、実際のところ学術的な反論を投げかけることができるのです。
という主張をしてきたうえで、私の立場から英語の未来時制に関する考えを次の記事では表明したいと思います。先に予告しておくと、私は英語教員として中学生・高校生に英語を教えるとき、「未来形」「未来時制」という用語を使うことはほとんどありません。またまた今回の主張と逆行するようですが、これには教え手としての私にとっての都合によるところも大きいです。
というわけで、英語動詞の未来時制を考えるシリーズは、次回が最終回です。少し個人的な話になっていきますが、今回のように未来時制を認める根拠はあるのに、なぜ英語の授業で「未来形・未来時制」という用語を使わないかについて述べていきます。さらに、そもそも、宇宙に流れる「時間」というものを「時制」という言語形式で表すことについても考えを深めていきたいと思います。
- 柏野健次(1999)『テンスとアスペクトの語法』開拓社
- 中尾俊夫・児馬修(1990)『歴史的にさぐる 現代の英文法』大修館書店
- 堀田隆一(2016)『英語の「なぜ?」に答える 初めての英語史』研究社
- R. D. Fulk(2018), “A Comparative Grammar of the Early Germanic Languages”, John Benjamins Publishing Company
- Alkire, Ti / Rosen, Carol (2010), “Romance Languages, A Historical Introduction”, Cambridge University Press
→英語史に関する推薦書
→英文法に関する推薦書
→ロマンス語学・ロマンス語史に関する推薦書
→印欧語・ゲルマン語全般に関する推薦書