印欧語の音韻について

imaizumisho

今回の記事では、印欧語の音韻について、やや専門的な内容を紹介します。この分野は、なかなか日本語で書かれた入門書がないので、私なりに基本から順を追って説明していくというのが今回の趣旨です。

200年にわたる比較言語学の成果によって、印欧語がどのような音を持っていたかは、理論的に再建されています。形態や統語に比べて、この音韻という分野は比較的安定した成果が出ております。一部解決を見ていない部分はありますが、概ね現代の研究者は意見を共にする部分が多い分野です。

今回紹介するのは、印欧語がどのような音素を持っていたかです。そこから次回以降、グリムの法則へと話を進めていこうと思います。私は、言語学の成果を言語学習に生かすというコンセプトで活動しておりますが、実際的な語学に役立つ話は次回以降になります。今回は、いわばその壮大な伏線です。ムズカシイ内容は読み飛ばしてもらって、またいつか知りたくなったときに帰ってきてみてください。

この記事で触れられるのは、印欧語の音素とそれに関するいくつかの最小限のコメントです。成節子音やラリンガルについても簡単に触れます。失われし言語について、さらにロマンを感じるなら、参考文献の書籍に当たって見てください。

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Phonemes in IE

印欧語の音素

言語学では、「音」の最小単位を音素と呼びます。「たこ」という日本語は、

/t/ /a/ /k/ /o/

という4つの音素から成り立ちます。現代語では、11音素ほどしか持たない言語から、140音素以上をもつ言語まで様々です。英語は数え方にもよりますが、45音素ほどをもつとされます。

印欧祖語では、Mallory/Adams(2006:54)のカウントで、32音素が再建されています。比較言語学による音素の再建方法は今回の趣旨ではないので、機会があればまた別の記事で解説しようと思います。実際、印欧語の音韻は、比較言語学の手法とともに紹介するのが筋なのですが、今回は、印欧語がどのような音素をもっていたかに話を絞ります。次回以降、グリムの法則に最短でつなげていくための方策です。

詳しいリストは次節で見ていきますが、大まかな特徴を述べておきます。

印欧語の音韻の特徴

  • 閉鎖音が豊富で、摩擦音が極めて少ない。
  • 3つのラリンガルの存在が想定されている。
  • 最も基本的な母音は *e で、それ以外にも、*o, *a とそれぞれの長音が想定される。
  • 共鳴音と呼ばれる *m, *n, *r, *l は単独で音節を形成することができる。これらの共鳴音や *y, *w などの半母音は、環境によって *i, *u の母音として実現することがある。

これだけでは何のことやらさっぱりわからないと思いますので、以下でさらに詳しく見ていきます。

ここで、印欧語について語る上での前提です。印欧語の再建されたものは、理論的な構築物です。派生した言語から逆算して、こういう抽象的な式が導かれたという具合です。その音が実際にどのような「発音」として実現されたかは、また別の話になります。いわば、物質を元素記号や化学式のみで表記したようなもので、その物質に触れたとき、どんな見た目や質感をもつと我々が感じるかはまた別の話というわけです。祖語で会話するのは語学ファンの楽しみではありますが、あくまでここで紹介するのは理論上の再建物で、現実世界のフィジカルな言語とは違うことを押さえておいてください。

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Consonants in IE

印欧語の子音

まずは、この表の全体的な話をして、その後細かい点について指摘していきます。印欧語についいての基本文献は、入門書であっても英語で書かれたものがほとんどなので、英語訳を付けています。ラリンガルを軟口蓋音の場所に位置づけていますが、これは便宜上のもので、あまり実態とは関係がありません。

体系の中で真っ先に指摘すべきは、閉鎖音が豊富であるということです。無声閉鎖音(or 破裂音)は、*p, *t, *k というおなじみの音以外にもいくつか種類があります。一方で、摩擦音はただ1つで、*s のみが再建されています。たとえば、英語には /f, θ, h/ などの無声摩擦音がありますが、こういった音は印欧語には見られません。この点は、グリムの法則(or 第一次子音推移)によってゲルマン語が摩擦音を獲得していく話につながります(次回以降の記事を参照)。

閉鎖音は、調音方法として3種類あります。表の縦の列が調音方法を示します。両唇音を例に取ると、

無声音 *p
有声音 *b
有声帯気音 *bh

です。帯気音とは、強い呼気とともに発語する閉鎖音です。

印欧語の最大の特徴であり、謎の1つが、ラリンガル(laryngal)という、口のすごく奥で発音する咽頭音(?)のようなものが存在した点です。ラリンガルには3種類(or 4種類)あり、ほぼすべての娘言語で消失しました。3つの種類を h 右下の小さな数字で明示することが一般的です。この音は、前後の音を変える「音色付け」のような作用をもっており、印欧語の母音の変化など、謎多き現象を解き明かすための重要な役割を担います。

共鳴音は、*n, *m の鼻音と、*r, *l の流音からなります。これらは印欧語では単独で音節を形成することができ、ソナント sonant (or 成節子音)と呼ばれます。母音とセットで用いられたら、子音として機能し、子音にこれらの文字が挟まれたら母音として機能するということです。これも印欧語の極めて特異な点です。母音として機能するソナントを明示するときは、*n などの文字の下に小さいを付けるのが慣習です。

以下では、細かい点を補足していきます。

Q
*b の再建が難しい

この表に挙げた音の中では、*b が最も稀な音であり、中には印欧語には *b の音が存在しなかったという論もあります。多くの言語に見られる一般的な子音 b が印欧語では再建が難しいことは、謎の一つです。

また、有声閉鎖音は一つの単語に2度出てこなかったことも指摘されています。そのため、印欧語では *deb- や *beg- のような、現代語からするとありふれた単純な語形すら再建することができません。つまり、dog のような単語は印欧語では存在しえなかったということです。これは、英語などの西洋の現代語を基準にすると特異に見えるかもしれません。

ちなみに、日本語の大和言葉でも濁音を2つ以上もつ語幹はなく、さらに濁音は語頭にも現れないので、あまり変なことでもないのかも(?)なんて思えたりもします。

再建された語形において、それぞれの音素が現れる頻度はClackson(2007 :41)を参照。

Q
ラリンガル理論

ラリンガルの存在を予想したのは、ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)でした。彼はヨーロッパ構造主義言語学の礎を築いた人物として語られることが多いですが、元来は歴史言語学者でした。印欧語の母音交替を説明する理論を模索していたソシュールが提案した「ソナントのように機能する要素」coefficient sonantique は、斬新さ故、当時はあまり受け入れられませんでした。しかし20世紀になってヒッタイト語の文献が発見され、その証拠が見つかると、潮流は大きく変わっていきます。

現在一般的に語られる3種類のラリンガルは次のようなものだと想定されています。

h1
口の奥で空気を止める声門閉鎖音のような音。

h2
軟口蓋あるいは咽頭で発音する摩擦音のような音。/h/ よりも口の奥で発音するそれに似たような音。

h3
口の後方で発音されていた有声摩擦音。円唇が起きていたか。(?)

参考 Clackson(2007: 57)

ラリンガル理論の導入によって19世紀の比較言語学では解明できなかった現象を、20世紀以上の学者たちは次々解決していきました。現代でも完全に統一的な理論は生まれていませんが、ラリンガルのようなものを想定することは印欧語研究の常識のようになっています。ソシュール以降の母音交替解明の歴史は非常にオモシロい話なので、また別の記事で詳しく扱いたいと思います。

Q
軟口蓋音 *k’ と両唇軟口蓋音 *kw

プライム記号(アポストロフィーのようなもの)がついた *k’ は、軟口蓋音 *k の発音が、口の前方の硬口蓋音になったものです。日本語で「かき」[kaki] と言うと、「か」よりも「き」の方で、[k] が口の前方で発音されているのがわかるでしょうか。このように、口の前側、すなわち硬口蓋のあたりで発音する閉鎖音*k’ で示しています。これ以外にも、専門書によっては k の字の上に「 ̯ 」をつけたような記号を使うこともあります。日本語の「き」(日本語の音韻論では「拗音」と呼ぶ)の音を音声学的に正しく表記するために /kj/ のように小さな j を添えることもありますが、それと似たような操作です。

実際のところ、英語や日本語において軟口蓋音 /k/ とそれが硬口蓋に寄った /k’/ のようなものを別の音として区別する必要はないため、通常は同じ /k/ として扱います。音素とは意味を区別するのに必要な言語の最小単位という考え方があるからです。言語によってはこの二種類の /k/ 音を区別しないといけないものもあり、そういうときは、上記のように表記を分ける必要があるわけです。

*kw は /k/ を発音するときに唇の丸め(円唇)が同時に起きた音です。/k/ と /w/ の2つの音ではなく、/kw/ で一つの音素と考えます。

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Vowels in IE

印欧語の母音

印欧語の母音は、子音に比べると議論の余地が大きい領域です。研究者によっても統一された考えは示されておらず、ほとんどの専門書が独自の立場を取っているというのが現状です。しかし根本においてはこちらも統一見解が見られるので、まずはその内容を紹介します。

印欧語の母音で最も確実に再建されているのは *e です。最も一般的な母音であり、これが規定される唯一の基底母音であるという立場もあります。印欧語の基底母音(語形変化によって生じたものではない語根の母音)の再建確実性は、主に次の順序で弱くなっていきます。

*e → *a → *o → *i, u

*e の次に確証が得られているのは *a の母音です。しかし、これも *e に比べると非常に稀で、実際に確実に再建するのはわずかな証拠によるものとされています。印欧語関係の書籍に当たると、再建形に<a><o>の文字を含む語幹は一般的にありますが、*a は実際のところ *h2e に由来するものが多く、*o も形態上の要請によるものが多いとされています。この背景には、母音交替(or アプラウト Ablaut)という印欧語の形態上の変化が絡んできます。

*i, *u の母音は、半母音 *y, *w の母音としての実現形とするClackson(2007)のような立場と、わずかだが基底母音として存在するというRinge(2017)のような立場があります。いずれにせよ、稀な母音であることは確かで、高母音 *i *u を印欧語の母音に含めるかは議論の余地があります。

Q
アプラウト

アプラウト(独 Ablaut / 英 vowel gradation)とは母音が語形変化に伴って交替する現象です。印欧語では語形変化のあらゆる場面で幅広く見られます。印欧語の音韻や形態には、現代語からすると突拍子もないような理論が散見されますが、実は英語にもアプラウトの名残は見られます。

ride-rode-ridden

のような動詞の変化は印欧語からアプラウトを現代まで継承した形です。これより先の話は、現代語の理解に何ら関係ないように思えるかもしれませんが、動詞の活用形の母音交替を根底で支える理論は、このアプラウトの考えが印欧祖語→ゲルマン祖語→各ゲルマン古語→現代語へと連綿と受け継がれた結果であるのは興味深い点だと私は思っています。

専門的には、アプラウトは基底母音 *e を変化させるプロセスを指します。母音自体が消失する「ゼロ階梯」、ēに延長する「延長階梯」、oに変化する「o階梯」があります。

ゼロ階梯
zero-grade
e階梯(基底)
e-grade
full-grade
o階梯
o-grade
ē延長階梯
lengthened e-grade
ō延長階梯
lengthened o-grade

イメージしやすい古典語から考えます。「足」はラテン語で ped- の語幹を持ちますが、語幹母音の e は「e階梯」の印欧語の母音に由来します。ギリシャ語の斜格語幹は pod- となり、これは「o階梯」です。古英語では fōt となり、語幹の母音は「ō延長階梯」に依ります。

ラテン語 ped-e階梯>pedal, pedestrian
ギリシャ語 pod-o階梯>octopus
古英語 fōtō延長階梯>foot

表の一番右の列が各古典語に由来する現代英語の単語です。印欧語の母音交替で生じた母音が現代語に引き継がれているのがわかります。古英語のfōt(「フォート」のように読む)が foot と短い母音になったのは、英語内での新たな変化です。

アプラウトは母音に関する現象ですが、ラテン語やギリシャ語の <p><d> が英語でそれぞれ<f><t>になっている現象については次回のグリムの法則の記事で詳述しようと思います。

Semivowels ~ High Vowels

【参考】半母音~高母音

半母音→高母音、つまり y→i, w→u が同じ音素の異音(allophone)であるという考え方は、次のような例から考えるとよいです。

「水」を意味する語

サンスクリット語 udan-
ゴート語 wato-
(cf. 英語 water)

印欧語では「水」を意味する語幹は「ぅ」のような音で始まったと想定されます。便利なのでここはあえて日本語のひらがなで表記しました。

ゲルマン語派に属するゴート語では、「ぅ」が <w> で現れています。形態的な要請で、後ろに<a>という母音が現れているため、「ぅ」は音節を形成する必要がなく、<w>という子音として実現しています。一方、サンスクリット語では、「ぅ」の直後が子音<d>です。そのため、「ぅ」は音節を支える母音として実現し、<u>と表記されています。

印欧語では、ud-~wd- という語幹は同じ音素の別の現れ方である「異音」と捉えるのです。同じようなことが i~y の交替にも見られます。

Syllable-forming

【参考】成節

印欧語の音韻において最も特異な現象は、やはりソナントが環境によって母音として用いられることがあるということです。ソナントの *m, *n が母音として音節を形成するという点は、どの娘言語にも残らない特徴です。また、*r が母音として音節を形成するのはインド語派のみに受け継がれた特徴です。iとy, uとwを同じ音素の異音として扱う言語も娘言語にはいずれも見られません。

上記の例を一歩進め、印欧語の語形変化での成節子音の現れ方を見てみましょう。

「犬」を表す印欧語幹

k’un- / k’wn- ~ k’wń-

※ńは母音として機能する /n/ の実現形とします。実際には n の下に小さな○をつけた記号で表されることが一般的です。(ここではフォントの関係で ń という文字で代用しています。)

単数主格 k’wōn
単数属格 k’un-es
複数所格 k’wń-su
複数具格 k’wń-bhs

単数主格では、ōという単数主格のマーカーが現れており、母音の前で 「ぅ」は子音 w として実現します。

それ以外の形では、単語の右側から母音化条件を考えていきます。単数属格では、-es と母音で始まる語尾がついています。右側から見ていくと、-es に先行する n は、母音に先行する訳ですから、そのまま子音として機能します。そうすると今度は、k’wn-es となってしまい、k’wn- の部分の音節を支えるために、w は u という母音として実現します。

複数具格では、格語尾 -su が子音で始まり、それに隣接する n は母音 ń として実現します。右側から見るのがポイントです。そして ń が母音として語幹の音節を支えてくれているため、w はそのまま子音として機能します。複数具格も同じです。ソナントが連続する場合、このように右側が成節化されるというルールを導いたのは Schindler という言語学者です。実際、上記の複数具格 k’wń-bhs に相当するサンスクリット語 swabhis では、ń→a という印欧語とサンスクリット語の規則的な対応を考えると、一貫して説明ができるようになっています。

IE accent

印欧語のアクセント

印欧語のアクセントは、音の高低によるピッチアクセントであったことが推定されています。ヴェーダのサンスクリット語や古代ギリシャ語に見られた特徴です。これら古典語のアクセントは、現代語に至るまでに、大抵は特定の音節を強く発音する強弱アクセントに移行しています。

アクセント位置は、語形によって変わる可動アクセントで、アクセント位置を定める一定のルールははっきりとは導かれていません。古代ギリシャ語は印欧語のアクセントの癖を比較的よく残しているようで、ゲルマン語で「ヴェアナーの法則」なんかを考えるときにもよくギリシャ語を参考にアクセント位置が引き合いにだされます。

おわりに

今回の話は以上です。印欧語の性格を細かく突き詰めると、結局は複数の古典語に触れて、比較言語学の再建方法に基づいて語るしかありません。今回は前提をすっとばした結果のみの提示でしたが、それでも幾分難しい話になったと思います。印欧語の専門書に当たる前にすこしでも学習の助けとなればと思った次第です。印欧語について理解を深めるなら、参考文献のリンク「印欧語・ゲルマン語全般に関する推薦書」を参照してください。

今回の記事は次回以降「グリムの法則」「ヴェルナーの法則」を考えていく上の前提となる話です。といっても、英語学習に関する話は次回以降ですので、そこから読んでもらってもかまいません。

参考文献
  • Clackson, James, 2007, Indo-European Linguisitcs – An Introduction, Cambridge Textbooks in Linguistics
  • Ringe, Don, 2017, From Proto-Indo-European to Proto-Germanic: 2nd Ed. A Linguistic History of English: vol. 1, Oxford University Press
  • 清水誠, 2024『ゲルマン諸語のしくみ』 白水社

印欧語・ゲルマン語全般に関する推薦書

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巷の英語教員・語学人間
2018-2020年にかけて存在したサイト『やるせな語学』をリニューアルして復活させました。いつまで続くやら。最近は古英語に力を入れています。言語に関する偉大な研究財産を、実際の学習者へとつなぐ架け橋になりたいと思っています。
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