英語動詞に「未来形」はあるか【③やがて哀しき未来時制】

imaizumisho

英語の未来表現を考えるシリーズ、この記事が最終回になります。これまでの記事では主に次の点を述べてきました。

【①ゲルマン語本来の時制形式】
この記事では、一般的な学習文法での時制の説明を皮切りに、英語を含むゲルマン語には「現在」と「過去」の2つの時制形式が存在する(or 2つの時制形式しか存在しない)ことを確認しました。現在刊行されている総合英語系の文法書でも、この前提の元に英語の未来表現が説明されている例を紹介しました。

【②未来時制は、あります】
①の記事を受けての第2弾では、それでもやはり、英語動詞に未来形・未来時制を考えてもいいのではないかという見地を導入しました。共時的な捉え方や、他言語との比較で見えてくる事実をどう捉えるか、あまり従来の英文法書で触れられない点についても言及しました。未来時制を認めるか認めないか、学術的にどちらの論に対しても十分な根拠を挙げることができるというのがポイントです。

今回は、英語に限らず、そもそも「時制」とは何か、そして、一般的に言語に「未来時制」というものが見られるのかという根本的な問いからスタートします。その上で、英語教員として授業で英語の未来表現を扱う上での私なりの考え方を紹介して、シリーズの最後としようと思います。

Time and Tense

「時間」と「時制」

「時間」と「時制」の違いは何でしょうか。

この問いに、私ならこう答えます。「時間」とは宇宙に普遍的に流れるものです。宇宙の始まりから今に至るまで、止まることなく測定可能な形で流れていくものが時間です。アインシュタインが時間の進み方は誰にとっても同じではないことを理論化し、ホーキングがビッグバン以前の虚時間という概念を提案したように、「時間とは何か」ということを考えるのは、主に物理学者のしごとです。あるいは哲学者の領域といってもいいかもしれません。一般の人類のレベルでは、時間とは地球上の誰にとっても同じように平等に流れるものと考えるとよいでしょう。日本語話者にとっても1秒は1秒で、英語話者にとってもスワヒリ語話者にとってもその長さは変わりません。

一方、「時制」とは言語について語ることばです。地球上でふつうに暮らしている限り、「時間」は誰にも平等に流れますが、「時制」は言語が変わると変わります。「時制」が何かを研究するのは言語学者の仕事です。この分野の代表的研究者であるComrie(1985: 1)は、時制とは、「時間軸上のある事象を文法的に表現するあり方」(grammaticalisation of location in time)と定義しました。

言語が変われば「時制」は変わるのです。

例を挙げましょう。「今なにしてるの」なんて聞かれて、《今この瞬間英語を勉強している》ということを表す場合、日本語では「英語を勉強している」と言うことができます。ドイツ語でも《Ich lerne Englisch.》と単純な現在形で言うことができます。しかし、ご存じのように、英語の単純現在形《I learn English.》は、今この瞬間に勉強するという動作をしていることを表せません。英語なら《I am learning English.》という進行中を表す特別な表現が必要になります。英語とドイツ語のような、同じ西ゲルマン語族に属する言語同士でも、最も基本的な語形である単純現在形の表す内容はこのように異なるのです。

「私はいま英語を勉強しています」

英語
I learn English.
(動作の最中は表せない。)

ドイツ語
Ich lerne Englisch.
(動作の最中を表せる。)

他にも、英語の現在完了形の用法は、およそドイツ語の同等の表現とは違う意味を表します。そのため、ドイツ語を母語とする人が英語を勉強する際でも、時制表現とは習得に困難を抱える要素なのです。

「時制」を明示的に示す言語もあれば、そうでない言語もあります。しかし、文を発する時点で、どの言語であれ、その文を時間軸上に位置づける何らかの働きはあるわけです。動詞を含む文は、基本的に何らかの時制を纏います。そして、言語によって変わる「時制」の習得は、言語学習で言語の壁を越えていくことの根幹に関わるとともに、最も抽象的でつかみ所がない部分なのです。

学習文法のレベルでも、時制の説明は曖昧な説明にならざるを得ません。何かをわかりやすく説明すると、必ずどこかの側面を切り捨てないといけないからです。英語のように、最も広く研究されている言語でも、時制に関する問題は多くが解決を見ていません。「未来時制はあるか」「進行形を時制表現とみなすか、アスペクト表現とするか」「現在完了と過去完了は参照時が違うだけなのか」などなど、基本文献であっても、統一した説明がされない事象は無数にあります。

英文法を語るときのジレンマがここに生まれます。わかりやすさを求めると、言語の真の姿を歪めてしまうことになります。真の姿を突き詰めると、解決を見ない永遠に続く迷宮へと迷い込んでいきます。これが時制の難しさなのです。多くの学習文法では、なんらかの「うそ」を混ぜ込むことで時制の問題を説明しますし、そうする以外の方法はないのです。

The train leaves at 8.
電車は8時に出発します。

このように、単純現在形で英語では未来時を表せます。一方で、

*It rains tomorrow.
明日雨が降ります。

とは通常言えません。この場合、

It will rain tomorrow.

のように、will がないと不自然な英文と判断されます。かと思うと、if が導く従属節の中では、If it rains tomorrow のように、will が今度は使えません。同じ未来を表す表現でも、一筋縄には行かない場面は、英文法において無数にあります。

私も一介の英語の教え手ではありますが、学校レベルで学習者に英文法を教えるときに、「うそ」をつく以外に真実に迫る方法はないことを日々実感します。できることと言えば、それができるだけ罪なきものであるように最善を尽くすことぐらいなのです。

Future is Different from Past

過去と未来は違う

私たちは、当たり前のように、時間は過去から流れ、今に至り、未来へと続いていくと考えます。時間を「過去」「現在」「未来」のように3つに分けて考えるのは、現代人の感覚からすると、何の違和感もない自然なことです。

このように「時間」を3つに区切って、それに対応する「時制」の表現もそれぞれ1つずつあったら便利に思えるかもしれません。しかし、多くの言語ではそのようにはなっていません。ヨーロッパの多くの言語では未来時制がはっきりとは確立していません。

Comie(1985: 43)は、そもそも一般言語学において、「未来時制」という文法カテゴリーを想定することすら、単純にはいかないと述べています。(ただし、この考えは、現在との距離に応じて複数の未来表現がある言語を根拠に同著の中で柔らかく否定されます。)

「過去形」にあるのだから現在を通して鏡に映した「未来形」もあるだろうと思われるかもしれません。

でも、実際に「過去」と「未来」は同じように考えられますか? 

よくよく考えてみると、そんなことはないのでしょうか。過去は、すでに過ぎ去った時間領域です。過去に起きたことは確定済みで変更できません。《The train arrived at 8.》と言うと、それはもう変更ができない事実です。しかし、未来についてはまだ起きていないわけです。確定度は状況によって変わるでしょうが、重要なのは、まだ確定していない・変更可能ということです。「すでに起きたこと」(確定度=100%)「まだ起きていないこと」(確定度≠100%)は同じ地平で考えられないのは、なんとも自然なことに思われます。

英語には「過去よりも前」の出来事を表す言い方として「大過去」(had done)という形式が文法表現としてあります。高校で習って名前だけ覚えているといいう人も多いでしょう。では、これを現代を軸に対称移動させた、「未来よりも先」を表す「大未来」なんて表現はあるでしょうか。少なくとも英語の文法機能としてそのような表現はありません。

過去と未来はそもそも同じように語られるものではない。これは当たり前のようで、案外見落とされがちな事実なのではないでしょうか。前回の記事で述べたように、「未来時制」を認めるにしても、それは「過去時制」とは性格が異なるものだという留保が必要なのかもしれません。

How to Deal with Future Time Reference

教え手としての私見

私は英文法において「未来形」や「未来時制」の存在は認めてもよいと考えています。しかし、英語教員として英文法を教える際、実際に「未来形」や「未来時制」という用語を使うことはありません。この理由は、実際のところこれらの用語を使うメリットが一般の学習レベルでもほとんどないからです。

学校文法で「未来形」という言葉を使う教材や先生は、「わかりやすさ」を根拠としている場合が多いというのが私の印象です。

明日、雨が降る。

×It rain tomorrow.
○It will rain tomorrow.

英文を書くとき、学習者は、上の《It rain tomorrow》のような英文を初級段階では書きがちです。先生は、「これは未来のことだから、未来形にしましょう」といって、will を使った正しい英文に直します。「未来形」という用語を持っていると、「未来のことは未来形」とわかりやすく対応させることができます。初学者によくある動詞の間違いは、そもそもどの場合でも形を変えず、原形を使うというものが一番多いです。「3単現の -s の付け忘れ」「過去形にしていない」などが典型的な例です。上記の will rain の問題も同様に考えることができます。

Q
初学者によくある間違い

英語を教える仕事をしている人なら、動詞でも名詞でも、「形を何も変えない」という間違いが初級レベルでは最も多く見られるというのは納得できるのではないでしょうか。

動詞の形を変えず原形で使ったり、可算名詞を無冠詞単数(辞書に載っている形そのまま)で使うというエラーが文法学習では頻繁に観察されます。「○○形にしましょう」というのは、そういったエラーに対するトラブルシューティング的なアドバイスとしては十分に有用性があるものだと思います。

確かに、「未来のことは未来形にしよう」という意識は重要かもしれませんが、実際には高校レベルの時制分野では、 will や be going to だけでなく、英語には未来表現が無数にあるという事実に直面するのです。結局は「過去」「現在」(専門的には、過去ではないという意味で「非過去」という言い方をする)の対立の中で未来表現を整理するのが一番すっきりするのではないかというのが私の結論です。同様に、will be doing を「未来進行形」と呼んだり、will have done を「未来完了形」と呼んだところで、実際上のメリットはあまりないと思っています。will be doing が「進行」を表すことはありますが、「予定・計画」を表す別の用法が幅広く見られます。will have done なんて、「~したのだろう」というように、過去時に言及することもあります。ラベリングが実態と乖離する場合は、私はできるだけその名前は使わないようにしています。

わかりやすいラベリングを手放して、じっくり時制表現に真摯に向き合うのは、やってみたら案外できるものです。先生の中には、学習者はそんな難しいことは理解できない、などと切り捨てて過度に簡略化を図る人もいますが、そう結論づけるのは、あらゆる工夫をしてからでも遅くありません。

時制表現に対する感覚を磨くため、まずは日本語の例から考えましょう。

過去時:電車は8時に到着した

現在時:(毎日)電車は8時に到着する

未来時:電車は8時に到着する

未来時を表す言い方は、基本的に現在時の習慣的動作と同じ表現です。やはり「過去」と「非過去」の対立の中で時間軸上の事象を述べていることがわかります。

未来時を表すには、これ以外にも他の言い方があります。

未来時の表現:

電車は8時に到着する。

電車は8時に到着するだろう
電車は8時に到着する予定だ
電車は8時に到着することになっている
電車は8時に到着するはずだ
電車は8時に到着するかも

いずれも未来時の出来事を表す日本語の表現になっているのがわかるでしょうか。青字で示した部分は、時制表現というよりも、話し手の予想や考えを示す表現になっています。話し手がどのようにその事象を見ているか、という座標軸のことを、言語の世界では「法」(mood)と呼びます。法表現で示されるのは、話し手の「心的態度」(modality)です。世界をどのような態度で見ているか示す表現です。

前回の記事でも触れましたが、「未来時制」の確立が弱い言語では、基本的に「非過去」時制を未来に使ったり、上記のような法的な表現で未来時を指し示すことが一般的です。そして、Comrieをはじめ多くの言語学者が指摘しているように、そういった言語においては、未来時制が(、あるとするなら、)法表現から次第に文法的な形式として定着していくことが多いのです。この点も前回の記事で will の文法化を考えた際に解説しています。

英語での時制表現を考えましょう。

過去時: The train arrived at 8.

現在時: The train arrives every day.

未来時の表現:
The train arrives at 8.
The train will arrive at 8.
The train is going to arrive at 8.
The train is arriving at 8.
The train will be arriving at 8.
The train is supposed to arrive at 8.
The tarin is to arrive at 8.
etc…

英語では一般的に will で未来時を表すことが多いですが、単純現在形の arrives も上記の例文では適格です。見ての通り、未来時の表現にはさまざまな言い方があり、それぞれにニュアンスが微妙に異なります。本当に最低限の知識としては、「未来のこと ⇔ will」という対応関係で済ませていいかもしれませんが、実際に使われる表現は多種多様にあるわけです。

そういった場合、「未来形」などという用語でこれらをくくるのにも無理がありますし、結局は地道にいろいろな表現に触れる中で時制感覚をつかんでいくしかないというのが私の結論です。言語学習に限りませんが、究極的、あるいは本質的ににわかりにくいものを、無理にわかりやすくするのは、長期的に考えたときそれほどメリットはないのです

Q
中級以上で重要な未来表現

中学校で習う、will や be going to はとりあえず理解したとして、特に現代英語において重要なのは《is/are doing》と《will be doing》による、所謂「進行形」を使った未来表現だと感じています。これらが未来表現としてどのような役割があるかは、また別の記事を使って考察していこうと思います。

Q
will の訳には「だろう」をつけなさい

私が中学生のとき、未来表現として will を習ったときは、未来時を明示するために「~だろう・つもりだ」と訳を与えるように指示されました。確かに未来時であることを提示できますが、別に「だろう」をつけなくても日本語では未来時を表現できます。私が中学生の頃はこの点がずっと疑問でした。次第に大学入試レベルの英語を勉強する段になると、一つ覚えのように will をつけていた決まりはいつの間にかなくなっていたような気がします。

実際には、「だろう」訳は時制表現というよりは、話し手の予想を表す法表現です。英語の will は予想や意志のように法性が出る場合もあれば、純粋に未来時を表す標識として機能することもあります(学習文法では「単純未来」と呼ばれます)。

こういうわけで、「だろう」「するつもりだ」という法表現と未来時を表す時制表現は別物と考える方がいいです。前者から後者が発展して文法化するパターンが多くの言語で見られるのは、前の記事で確認した通りです。

時制表現としての will にも「だろう」「するつもりだ」をつけるのは、わかりやすい操作ではありますが、言語の本質とは少しずれていると言えるかもしれません。

Conclusion

おわりに

英語の先生が、ある説明を自分なりにするとき、その背景には言語に関する果てない考察があるものです。今回のシリーズは長くなりましたが、「未来表現」という限られた文法事項を考える際に自分のバックグラウンドにある言語事実を大きく広げて提示してみました。

もちろん、どのような文法説明が最も学習者にとって有益であるかは意見が分かれるところです。これを読んで提案や助言がありましたら、各種コメント機能でお伝えいただけたら幸いです。

私は時制マニアを自認しておりまして、自分の修士論文でもWeinrichによるドイツ語の時制論と現代ドイツ文学作品について論じました。時制・相・法の表現は文法学習の最もつかみ所のない分野で、学習者泣かせであると同時に先生泣かせの要素が満載です。突き詰めて考えると、わからないことだらけで、なんともやるせない気持ちになります。しかし、だからこそ考察し甲斐があるものです。英語教員として、今後も学習に役立つ時制論の研究をひっそりと続けていこうと思う次第です。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

参考文献
  • Comrie, Bernard, 1985, “Tense”, Cambridge University Press
  • 溝越彰, 2016『言語と時間を考える 「時制」とはなにか』開拓社

英文法の推薦書

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巷の英語教員・語学人間
2018-2020年にかけて存在したサイト『やるせな語学』をリニューアルして復活させました。いつまで続くやら。最近は古英語に力を入れています。言語に関する偉大な研究財産を、実際の学習者へとつなぐ架け橋になりたいと思っています。
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